私の自己紹介をしていなかった。私がどこのなんなのかが今ひとつわからない方もいるはずで。作業の合間にざっと書いているので少々雑な部分もあるがお許しを。
私の生まれ故郷は音更町内の音更川に近いエリアで、平凡なサラリーマンと専業主婦の間の三男坊として生まれ(5080グラム!)、歳の離れた兄2人にいい意味でも悪い意味でもいじられながら育ってきた。
小学3年の終わり頃、母を病気で亡くし、それからは仕事が忙しい親父の代わりに、兄弟3人で家事を回す、そんな生活が以降10年続いた。
学校ではPTA活動の一環で、親子レクリエーションが盛んな時代であり、こんなことを言っても仕方がないのだが、俺はいつも一人参加であったから、周りの親からの「あの子かわいそうね」視線と過剰な気を使われようで何ともいえない気持ちだったことを記憶している。
しかし、俺には「ばあちゃん」がいたから、そういう時に幾度となく救われた部分はある。
今年3月にちょうど100歳で亡くなったばあちゃんは、多分俺に色んなことを教えてくれたんだと今になって思う。
「おばあちゃんっ子は2割安」という言葉を昔何処かで聞いたような気がするが、あまり意味を考えたことはない。ばあちゃんに育てられた子は、人より劣っているという意味なのか。それなりに厳しかった記憶しかないが、前述の通り救われた部分はあったから、自分にとってそんな話はどうでもいい。
話が逸れたが、その後高校は地元の商業高校に進み、野球で甲子園を目指すも、まず以って周りの選手のレベルが高く、レギュラーにすらなれなかった。時折チャンスが訪れるも、プレッシャーに圧倒されて、試合のほとんどはスタンド応援に終始する。まあ、背番号を渡されない屈辱は、今になってはいい勉強だったように思う。
大学には進学しなかった。というより、経済的事情を気にしても仕方ないが、子供心にも、そんな家庭事情が気になって、迷うことなく就職先を探した。18歳で入社したのは、ある製造業の会社。私の態度が気に食わない上司に目をつけられて(笑)殴られ蹴られの日々がありながらも約8年間働いた。それでも社員数が多いので、中には心ある先輩方もいたから辞めるのはちょっと勿体無かったかな。
その後26歳で事務屋に転職。総合職という立ち位置でここでやっと社会の本当の厳しさと恐ろしさを学んだような気がする、詳細はいえないが。さらに会社を経営するとはどういうことかということも、色んなジャンルの経営者と仕事をしていく中で学べたのは大きかった。
それとは別に、この会社でも内弁慶上司と今ひとつソリが合わず、それがきっかけで辞めることになるのだが、俺はどうやら横のつながりは作れるが縦のつながりには滅法弱いらしい。弱いというか、自分より経験豊富な人間のはずなのに人の気持ちも汲み取れない人間に対しては、どうしても許せなくなってしまう。自分さえ良ければの精神を垣間見ると途端に臨戦体制に入ってしまう。要するに若干不器用なところがあるんだろう。
そして40歳になり、いよいよ独立しようと策を練っていたが、再びサラリーマンに。
若い社員は本当にみんな人間味あふれるいい人たちばかりで、こんな世界もあるのかと思うほど楽しく仕事をさせてもらった。あとはブログの第1回の内容の通り。
俺には経営者としての下地はないかもしれない。
だがただ一つ、「一生勉強、一生青春」という受け売りの言葉を信じてこれからも頑張ろうと思っている。下地はこれから造ればいいじゃない!
Comments